私が二十歳の頃―

(少し長い自己紹介です。お暇でしたら読んでください)


黒 晶と書いて、「イシグロ サヤカ」と読みます。名前の由来は簡単で、5月生まれなので「サワヤカ、サーヤカ、サヤカ…」となったらしいです。(ちなみに24日生まれで双子座、血液型はBです)

名付け親は祖母、石黒つぎ子という児童文学作家です。
つぎ子は生涯独身を貫いたクリスチャンでした。孫には甘いおばあちゃんでしたが(少し話はややこしくなりますが、祖母にとって私は実は姪の子です)ピアノのレッスンには厳しく、叩かれて泣いたことも覚えています。
この祖母の死後ピアノのレッスンからは離れて、野球や機械いじりが好きなごく普通の子どもの生活になりました。が再び、今度は人生を左右する音楽との出会いがめぐってくるのです。

学生時代にブルーノ・ワルターのベートーヴェン『田園交響曲』を聴き、それまで聴いたことのないような音楽の立派さ、美しさに新鮮な衝撃を受けたのでした。さらにフルトヴェングラー指揮の『第九』を聴き「音楽がこんなに素晴らしいものなら、作曲家になるしかない」と思うに至りました。
野球が好きで機械いじりに夢中な少年が、ある時音楽に魅せられ作曲家になりたいなんて…。ほんと青春のロマンなんですが、こんなきっかけで音楽の道に進んでしまった男の子が、結構いたんですよねえ。

さて東京芸術大学に入学、生まれ育った和歌山から上京。作曲科を見渡すと、浪人してきたお兄さんお姉さん方ばかり。音校(音楽学部のこと)の道路向かいの美校(美術学部)には、もっとすごいおっさんみたいなお兄さんたちがウヨウヨして…。
いやあ、いろいろと人生勉強になりました。
東京芸術大学のある上野公園では、大学キャンパスのとなりが上野動物園になっています。この頃中国から初めてパンダが来て、大騒ぎとなりました。美校の校舎窓からも見えたあのカンカン、ランラン。彼らは今どうしているのでしょう?

大学では、松本民之助先生というとても厳しい先生のクラスに入りました。そこでまず「作曲の基本勉強が全く不充分なのでしっかりやりなさい」と言われて、大学生生活をエンジョイする間もなく、またまた作曲技法の習得にはげんだのでした。松本先生はこの頃「とても(レッスンに)ついてこれないだろう」と思ったと、後になって述懐しておられました。

て芸大松本クラスは小所帯の講座で、入学当時1年生は私ひとり、二年生2人、三年生?人という状態でしたが、四年生は4人いて、そこにあの坂本龍一氏が在学していたのでありました。
この学年には坂本氏ともうひとり福富秀夫氏というとても優秀な方がいました。松本先生のお話では「進級試験ではいつも坂本、福富両君が学年の1、2を競うが、僅差で福富君が1位となる」ということでした。私の記憶では、福富氏がオーソドックスな書法で密度の高い作品を書かれていたのに対して、坂本氏は何か自由でどちらかというと即興的な感性に身を任せたような作品であったように思います。当時の私は、福富氏の曲により大きな共感を覚えました。
しかし最近坂本氏の著書を読むと、あの頃氏はすでに芸大アカデミズムの枠にはまり得ない自分の感性のあるべき場を求めて、模索なさっていた事が想像されます。
(福富秀夫氏は現在、沖縄県立芸術大学におられるそうです)

方から上京し作曲修業にはげむ私も大学1年、2年と過ぎるうちに、徐々に現代音楽の無機質的な調子に疑問を感じるようになってきました。進級試験ではまじめにバルトークっぽいソナタやクァルテットを書くものの、十二音セリーの音楽には共感できずジョン・ケージなどの芸術思潮にも心魅かれるものはありませんでした。作曲を志した頃のあの感動と、現代音楽の作曲との間に無視できない乖離を感じ始めたのです。
そんな中、偶然FM放送で日本人作曲家の新作を聴きました。

松村禎三作曲『ピアノ協奏曲第1番』。

ピアノのドローン音型で始まるこの曲を聴いたとき、少しも現代音楽臭くないことにまず意外な感じがしました。エアチェックしたテープを何度か聴くうちに、ただならぬ出会いをしているという実感がわいてきました。冒頭ピアノの長いソロに導かれるヴァイオリンの旋律は、当時の私にとって『癒し』に満ちた音楽でした。

こんな音楽が書けるのか。
現代という時代に現代音楽的でない書法で作曲しても、こんな音楽が作れるのなら素晴らしい。

う考えて、もう一度自分の音楽の原点を確かめつつ、作曲に取り組むようになりました。
4年生の歌曲作曲で山村暮鳥の長編詩「星」をテクストに選び、演奏時間27分の全一楽章の歌曲をまる1年かけて作曲。当然ながら卒業作品は1小節も書けず、留年が決定しました。
しかしこの作曲の意味は大きかった。もちろん誠に不十分な曲でしたが、今思い返してもあれは私にとってターニングポイントのひとつだったと思います。「詩から受けた感動を音楽にダイレクトに反映させたい。」なによりそのことを考えつづけ、曲のスタイルや書法などは二の次で書きました。
幸運なことに、この前年から松村禎三氏が芸大の常勤となられていました。この歌曲の演奏審査(作曲学生の作品試験を実演によって行なう)が終わった晩、突然松村先生からお電話をいただきました。「悪くなかった。君が詩に感動して曲を書いていることだけはよくわかった。他の先生方にもそれは伝わっていた」とのお言葉でした。
門下生でもない学生への松村先生のお電話は、私に音楽と人生の秘密を知らせてくれた、忘れられない思い出です。

の後先生や友人の影響もあって関心はヨーロッパ音楽から少し離れ、徐々にアジアのさまざまな音楽文化に魅かれていきました。当時芸大楽理科には小泉文夫先生がおられ、特に非ヨーロッパ圏音楽の資料が豊かに集められていました。時間があると楽理科の資料室に行き、様々なレコードを見つけては聴いたものです。
そんな中に一つのレコード全集がありました。

『沖縄音楽総攬』。

私のライフワークのひとつとなる沖縄音楽と、ここで初めて出会ったわけです。

のレコードで聴いた沖縄民謡のいくつかを素材に、大学院で曲を書くことになります。
芸大楽理科には当時「沖縄民俗音楽ゼミ」があり、大規模な現地調査とその整理研究が進行中でした。ある日ゼミに参加し、楽理科の人々を前に自分の作曲の計画を話しました。話しながらしかし、何か気まずさを感じずにいられませんでした。自分のこの仕事は、多くの時間と人手を費やし進められていたフィールドワークと整理作業に割り込んで、その成果のみ頂戴してしまうことではないのか。
膨大なエネルギーが注がれた彼らの仕事をいわば材料にして、仕事部屋の中で作曲を進めることに、ある後ろめたさを感じさせられたのです。
しかしゼミの主催者であった小泉先生はいつもと同じく、ニコニコしながら私の計画を聞いておられました。

その後、迷いながらもレコードや沖縄ゼミ資料を調べ続け、また自らの沖縄取材旅行を経て仕事への確信もだんだん深まり、大学院3年目の秋ようやく「三つの沖縄の歌」という曲を書き終えました。
ちょうどその頃偶然、大学の廊下で小泉先生にお会いしたことがありました。小泉先生は私の作曲を頭の片隅に覚えて下さっていて、ようやく曲が完成する事をお話しすると「そうですか、ようやくまとまりますか。」とおっしゃいました。初演はぜひ小泉先生にも聴いていただきたいと、その時切に思いました。
しかしその後、曲にはなかなか上演の機会がなく、ようやく作品完成後5年を経て演奏されたときは、既に小泉先生は他界された後でした。

い返せばその後の人生を決定づける出会いを、私も二十歳前後に多く与えられています。
「二十歳の頃」は苦しい模索の時期であり、また同時に恵まれた吸収の時期でもあると言えます。若い学生を前に、今は私が彼女たちに何かを伝える番になりました。ためらいを感じつつ、私の「二十歳の頃」を語ることもあります。そして「先生はこんなとき、どんな風に話してくれたっけ…」と、よく思うのです。
自ら何かをさがそうとしている学生と、控えめにしかも誠実に向き合う姿勢を、あの頃私が出会った先生方から知らされたように思うからです。